巌流島でなぜ武蔵と小次郎が決闘したか?実話を簡単にご紹介!

巌流島と言えば、剣豪・宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の聖地としてあまりにも有名ですよね。

(※写真はイメージです)

でも、なぜ2人が決闘することになったのか、なぜ決闘の場所が巌流島なのか?いつ頃行われたのか?2人ってどんな人なのか?実話なの?といったなぜ?がたくさん思い浮かびます。

そこで今回は巌流島の決闘のなぜ?について簡単にご紹介していきましょう。



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武蔵と小次郎の決闘って実話なの?

巌流島の決闘を題材にしたドラマや映画は、これまでたくさん制作されてきました。最近では、横浜流星さん主演の舞台「宮本武蔵」があります。巌流島の決闘は、古くは江戸時代に歌舞伎や浄瑠璃で人気の演目でした。そんな昔から人気だったのなら、巌流島の決闘というのは、実話だったのでしょうか?

しかし、詳細が残された史料は現在のところ無い、というのが「実話」です。 佐々木小次郎は実在していましたが、出身地や人柄について明確にわかる史料は見つかっていません。

宮本武蔵も明確な出身地など不明点も多いですが、自ら執筆した「五輪書」には剣術士としての多くの勝負について書き残し後生に伝えています。「五輪書」中に、豊前小倉藩領の舟島で岩流と戦ったとあり、これが巌流島の決闘であると言われています。

しかしそこには佐々木小次郎という名前はありません。当時の剣豪同士の決闘について、新しい史料が見つかるまで想像や映画などで楽しんでいきたですね。

巌流島の決闘ってなぜ人気なのでしょうか?

朝日新聞に連載された吉川英治の「宮本武蔵」は人気となり、漫画「バカボンド」の原作にもなっています。他にも大河ドラマ、映画、舞台などの作品があり、実話かどうかわからなくとも人気あるエピソードとなっていますね。

巌流島の決闘の最古の史料は「小倉碑文」です。武蔵の養子である宮本伊織が1654年頃作成しました。養父がどれだけ素晴らしかったなど記されており、そこに「巌流」という言葉はありますが、佐々木小次郎という名前はありません。

その約100年後、1776年(安永5年)に「二天記」という宮本武蔵の伝記が武蔵の門人たちによって作成されました。ここでやっと佐々木小次郎という名前がでてきます。どういった経緯で佐々木小次郎が登場したかは謎ですが、いろいろ加筆され巌流島で武蔵と小次郎の決闘というエピソードが出来上がっていったのでしょう。

実話かどうかわからない、謎めいたところが想像をかき立てて面白みを増しているのですね。小倉城は美しく、また沢山の史料や映像、五輪書の説明もあるので巌流島と合わせて訪れたい場所です。決闘は1612年(慶長2年)といわれているので、2人とも、1600年前後に生存していたことがわかります。

関ヶ原の戦いの辺りですね。宮本武蔵の流派は「二天一流」で「二刀流」を編み出しました。佐々木小次郎は独自の流派「岩流」で必殺技は「燕返し」です。どちらも聞き覚えのある言葉ですね。

巌流島の場所はどこにあるの?

決闘のエピソードや佐々木小次郎の詳細など不明点が多いですが、巌流島は実在しています。その所在地は、山口県下関市大字彦島船島648番地。関門海峡に浮かぶ小島です。

島の周囲は約1.6キロ、面積は約10.3平方メートル。島の約1/3を下関市、2/3を民間企業は所有しています。島は明治以降に埋め立てられて、当時はもっと小さな島だったそうです。

巌流島へは直行便の連絡船があります。特に下関と門司港と巌流島の3箇所を行き来できる「トライアングルフリーパス」(※一日乗り放題券」は便利でお得です。自分は船に乗る機会が少ないのでここぞとばかりに何回も乗りました。買ってよかったです。 それぞれ移動時間は10分程で海が穏やかであれば船酔いも回避できそうですよ。

巌流島には、武蔵と小次郎の決闘シーンをイメージした銅像があるので、この場所でいろいろな想像を楽しめます。ベンチがあって、武蔵が小次郎を待っていたことを想像してもいいですね。銅像は巌流島以外の場所にもあります。小倉城です。小倉城の外にあって、小倉城の中にはパネルが展示されています。



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巌流島でなぜ武蔵と小次郎が決闘したか?実話を簡単にご紹介!【まとめ】

今回は、巌流島でなぜ武蔵と小次郎が決闘したの?について簡単にお話をしてきました。

決闘について佐々木小次郎には不明点が多いので、これからいろんな史料が発見されるといいなあと思います。

巌流島は実際に存在するので、武蔵と小次郎が決闘した同じ場所に立つと歴史を想像する楽しさが生まれます。

直行便で下関港からも、唐戸桟橋からも10分ほどで簡単に行けるし、大人数ならチャーター便も予約できます。

釣りやタンカーの撮影スポットとしても人気の場所ですよ。