銀閣寺は誰が建てた!どんな目的で?義政の歴史を解説!! 

京都は北山・西山・東山と三方の山に囲まれ、南にひらけた地形になります。

そのひとつである東山の麓には、足利三代将軍義政が建てた銀閣寺がひっそりとたたずみ、自然の美しさと調和をとりながら、訪れる人のこころを癒してくれます。


また、三代将軍足利義光は、北山に金閣寺を建て栄華を極めました。

金閣寺のきらびやかな姿は、見る人のこころを奪います。

銀閣寺は東山文化、金閣寺は北山文化を生み出しましたが、どちらの文化も現代の遺産として大切にされ、今もなお人々に愛されています。

今回は、銀閣寺の歴史などを分かりやすく解説していきますね。

最後までどうぞお付き合いくださいね。



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銀閣寺は誰が建てた?

銀閣寺は、足利八代将軍義政が、1482年に東山殿を造営し始めたのが始まりとされています。

ではここで、足利義政はどんな将軍だったのか?義政の歴史も合わせて少し探ってみることにしましょう。

義政は6代将軍足利義則の次男として生まれ、兄は義勝、弟は義視(よしみ)を兄弟にもちました。

父・義則の暗殺により、兄・義勝が9歳のとき7代将軍となるのですが、なんと1年後に義勝は病死します。

さあ、義政がいよいよ登場となるのですが、義政はわずか8歳で家督を継ぐことになり、さらに14歳のとき元服(武家の男子が大人となったことを示す儀式)し、将軍となるのです。

8歳なら、まだ小学生ですよね。

まだまだ子どもじゃない??と思うのですが…

将軍になった義政でしたが、政治のことは無関心で、有力な管領や大名などが政治を動かしていました。

奥さんの日野富子は、義政以上に政治に関心を向け、たびたび政務に口を挟むありさまだったといわれています。

富子は将軍の立場を利用して政治を牛耳り、守護らに金を貸しつけ利子をとるなどやりたい放題だったともいわれています。

そんな、富子の行動に義政はやりきれず、いつしか自分の好きなことを一日中楽しみたい!と思うようになっていくのです。

義政は38歳のとき、息子の義尚(9歳)に将軍職を譲りますが、義政が将軍職を引退した後に住むための東山殿の造園をはじめたとされています。

富子から逃げるためだったのか?隠居とは口実だったのか?

それから義政は宴を開いたり、芸能の分野に熱中したり、政治はそっちのけで「名ばかり将軍」の名をほしいままにしたわけですね。

権力をほしいままにした義光とは、全く比較になりません。



銀閣寺の歴史はどうなの?

義政は、北山殿に次いで東山殿を造営しますが、義政は権力の誇示のために銀閣寺を建てたのでは、決してありませんでした。

金閣寺は金箔がふんだんに貼られていますが、銀閣寺には銀はどこにも見当たりませんね。

義政は銀閣寺の設計を「同朋衆(どうほうしゅう)と呼ばれる文化人に任せっきりにします。

代わりに東山文化を代表する建築技術などが残りました。

しかし、経済力がなかった義政のもとに資金が集まるはずもなく、銀泊を貼る計画は儚くも叶わぬまま終わってしまったということです。

奥さんの富子に頼んでも、資金は出してもらえなかったのね……かわいそうに……

人生には何事にも計画が必要だということですね。

しかし、銀閣寺は「わびさび」という言葉があるように、簡素で落ち着きのある雰囲気をかもし出し、将棋や生け花もこの頃から始まりとされるなど、多くの東山文化を生みだしました。

金閣寺が三階建てに対して、銀閣寺は二階建てです。

一階は書院造で、「真空殿」とよばれ、二階は禅宗様式の造りで「潮音閣」とよばれています。

この銀閣は「観音堂」といい、1488年に義政が建て始めますが政はこの観音堂、すなわち銀閣の完成前の1490年にこの世を去っているのです。

その後、東山殿は「慈照寺」と改められ、現在に至っています。

メインの銀閣を見ずに亡くなるなんて…無念…



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銀閣寺は誰が建てた【まとめ】

銀閣寺を建てたのは足利八代将軍義政で、1482年に東山殿を造営したことが始まりとされています。

義政は政治には無頓着で、芸能の分野に没頭しましたが、東山文化などから生まれた素晴らしいものを残し、京都の代表的な観光名所となりました。

現在の銀閣は観音堂ともよばれ、義政は銀閣の完成を待たずしてこの世を去っています。

多くの文化を生み出した足利義政ですが、もし義政も三代将軍義光と同じタイプの人物であったとしたら、銀閣寺や東山文化は存在していたのでしょうか?

同じタイプの者同士より、ちがうタイプの者同士が生み出したからこそ、素晴らしい文化が残されたのだと思います。

最後までお付き合いいただきありがとうございました