名古屋城はいつ建てられた?なぜ建てられたのか、建てた人等詳しくご紹介!

「尾張名古屋は城でもつ」は、江戸時代に流行した唄の一節。400年経ったいまも残るこのフレーズに徳川家康も喜んでいることでしょう。「城でもつ」のもつは保つのこと。お城のおかげで名古屋の街が繁栄するという意味もあるそうです。

(※写真はイメージです)

そこで今回は名古屋城が、いつ建てられたのか、なぜ建てられたのか、建てた人って誰なのか、名古屋城築城の歴史をわかりやすくお話していきましょう!



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名古屋城を建てた人って誰なの?

名古屋城を「建てよ!」と築城を命じたのは徳川家康です。豊臣家の家臣たちを中心に石垣やお堀を含む築城がすすめられました。

名古屋城はいつ建てられた?

名古屋城はいつ建てられたのでしょうか。家康が名古屋城の築城を命じたのは、1609年(慶長15年)です。そして1615年(元和元年)に当時のお城の中では鉄壁の守りを持つお城として完成しました。

その頃何があったのか、歴史上のわかりやすいポイントはといえば、1600年の「関ヶ原の戦い」ですね。その関ヶ原の戦いが終わった約10年後に築城が命ぜられたのです。

名古屋城はなぜ建てられた?その歴史をわかりやすくお話します!

関ヶ原の戦い後、徳川家康は江戸に幕府を開き、名古屋城の築城を命じました。なぜ江戸にいるのに、名古屋での築城を命じたのでしょうか?それは、大阪城にいる豊臣家や豊臣勢力を牽制するため、とする説が有力です。

江戸幕府は1603年に開府し、名古屋城が完成した1609年には江戸幕府が盤石となりつつありましたが、まだ敵である豊臣の勢力は強力でした。そこで家康は豊臣が攻めてきて、また戦国時代に戻らないよう、天下泰平の世を保つために、加藤清正、前田利光、黒田長政、福島正則など豊臣の家臣を中心に20名の大名に名古屋城の築城を命じました。

なぜ、豊臣の家臣たちに築城を命じたのか?幕府への忠誠を示させるため、と考えられています。当時の最先端の技術を取り入れ、守りを重視した城を築き、極めつけは、金のシャチホコを天守閣に乗せて江戸幕府の財力を誇示しています。こんなすごい名古屋城をみたら、豊臣勢力は徳川家に刃向かう気も失せますよね。

加藤清正は、築城の名手と言われています。熊本城や江戸城など7つの城の築城にも携わっているんですよ。名古屋城内には加藤清正の石疋きの像や、石垣の石には各大名の刻印が残されていますので見つけて下さいね。

なぜ、名古屋に城を築城したのでしょうか?

それは立地です。名古屋城のあたりは地盤が強く高台にあり城を築くには好条件、と家康は見極めたと考えられています。例えば清洲城は平地にあるので、水攻めに弱いことを考えると、お城を高台に作るのは理解できますね。

現在の名古屋城の二之丸辺りに「那古野城」がありました。これは駿河の今川氏親が尾張攻めをするために築いた柳之丸を、1538年頃織田信長の父・信秀が乗っ取り「那古野城」としました。後に信長が城主となり、信長が清洲城へ移転した後は廃城となっています。

那古野とは地域の名前で、円頓寺商店街あたりは町名が使われています。城を築くには立地が重要なのだなあ、と思ってしまいます。名古屋城を建てた人・家康が眺めた名古屋城近辺の地形を想像しながら、名古屋城を歩いてみると楽しいかもしれません。



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名古屋城はいつ建てられた?なぜ建てられたのか、建てた人等詳しくご紹介!【まとめ】

今回は、名古屋城っていつ、なぜ建てられたのか、建てた人についてわかりやすく歴史を振り返ってみました。

名古屋城の初代城主は、家康の九男・義直です。 清洲城の藩主でしたが名古屋城に移り尾張藩を立藩しました。名古屋城を築城すると同時に家康は碁盤の目を基礎とした城下町も作りました。当時の地図と、現在の地図を見比べるとほとんど一致していますので、家康のすごさが伝わりますね。尾張藩は徳川御三家の筆頭でしたが、将軍となる人は出せませんでした。

でもこんな立派な名古屋城があれば充分ですよね。ざっとですが名古屋城築城の歴史をわかりやすくお話してみましたので名古屋城に行かれる際には参考にしてくださいね。