大阪城はいつ建てられた?誰が何のために建てたのか検証します!

大阪城天守閣は美しさだけで無く、約40メートルの高さを誇る巨大なお城です。現在見られる天守閣は、昭和6年に復興された3代目の鉄筋コンクリート製の大阪城天守閣です。初代と2代目はどんな天守閣だったのか気になりますよね。

(※写真はイメージです)

そこで今回は、大阪城がいつ建てられたのか、何のために建てられたのかなどについて徹底検証していきます。



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大阪城はいつ建てられたの?

現在見られる大阪城は、1931年(昭和6年)に復興されました。この敷地には当初、石山本願寺がありました。城内の修道館近くに石山本願寺跡がありますので、大阪城に行った際には見て下さいね。
○石山本願寺跡
参考サイトはこちら→https://osaka-castle.net/osakajo/ishiyama-honganji-suiteichi.html

石山本願寺は、お寺自体も、僧侶たちもとても強大で武装勢力もありました。お城の石垣というのは、元々は寺院が土留めのために、石を積み重ねていたものが発展したと考えられています。石山本願寺と織田信長は、1570年(元亀元年)から1580年(天正8年)にかけて10年にも及ぶ石山合戦を繰り広げていましたが、最後は信長がこの敷地を手に入れました。

しかし、1582年(天正10年)に本能寺の変で信長は死んでしまいます。その後、豊臣秀吉が天下人となり、1583年(天正11年)石山本願寺の地に大阪城を築城を開始しました。秀吉は、信長の遺志を受け継いだのかも知れませんね。また、大阪は瀬戸内海の海路を利用して経済の発展に繋がる好立地だったことが信長の狙いとも言われています。

秀吉の大阪城は、初代天守閣、石垣、本丸、二の丸など1588年(天正16年)にほぼ完成します。しかし、1598年(慶長3年)に秀吉は死んでしまい、大坂城は1615年(慶長20年)に大坂夏の陣で天守閣は焼失してしまいます。徳川幕府2代将軍・秀忠は、1620年(元和6年)に大坂城を再築しました。

秀吉の時代のものと比べると、敷地は狭くなりましたが、天守の高さは58メートルと高くなり徳川の威光を示しています。2代目天守閣ですが、1865年(寛永5年)落雷のため、焼失してしまいます。それから1931年(昭和6年)の3代目復興まで、天守閣のない大坂城となっていました。

3代目の天守閣は、大阪市民の熱意によって約750億円ほどかけて、復興されました。これが、現在見られる大阪城の天守閣です。鉄筋コンクリート製なので、昭和20年の第二次世界大戦の空襲にも耐えたのだ、と思われます。

自分が以前大坂城をブラブラ歩いてたら、多分地元のおじさんが寄ってきて「石垣のここの穴は米軍が撃った銃弾の跡なんだ」と説明をしてくれました。それ以来、大坂城に行く度にその話しを思い出しています。今度会ったら、大阪城について何のために建てたのかとか、いつ建てられのかも聞いてみようかなあと思います。

大坂城は何のために建てられたの?

初代の大坂城は豊臣秀吉が築城しました。当時は、諸大名や職人たちが多いときで1日3万人が工事をしていたそうです。5年ほどで完成しているので、昼夜問わずの作業と思われます。

先日、名古屋城の石垣復旧説明会に参加したのですが、石垣を組み立てる実演を見ていたら石垣を組み立てるのに人力で作業しただなんてとても信じられませんでした。重機もクレーンもない時代に、石垣も天守閣も人の手で作り上げたなんて、豊臣秀吉の権力のすごさを改めて理解できました。権力の大きさが、お城の大きさとイコールだった時代ということですよね。

明治時代になると、大阪城内の建築物の多くは取り壊されてしまいました。そして大阪城の敷地は、陸軍の施設とし利用され、現在は史跡公園として市民の憩いの場となっています。



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大阪城はいつ建てられた?誰が何のために建てたのか検証します!【まとめ】

今回は、大阪城はいつ建てられたのか、何のために建てられたのかについて検証しました。大阪城は、国内だけでなく、海外からも多くの観光客が訪れる人気のスポットとなっています。多門櫓、千貫櫓、焔硝蔵などの重要文化財も見応えがあり、城内はボランティアガイドさんもいるので、質問には気さくに答えてくれ疑問が解決しますよ。

現在、大坂城豊臣石垣公開プロジェクトがあり、地下に埋もれた秀吉時代の石垣を掘り起こす活動が行われています。この石垣が見られること頃には、4代目の天守閣になっているかもしれませんね。