五稜郭の戦いをわかりやすく解説!いつ始まりなぜ降伏したのか分析!

五稜郭の戦いと聞いてまず思い浮かべる人物は、新撰組・副長土方歳三だという方は多くいらっしゃるでしょう。自分もその1人です。日野の新撰組祭りにも行けたし、京都のゆかりの地も行けたし、次は五稜郭へ行きたい。

(※写真はイメージです)

土方歳三の最期の地といわれている函館市にある石碑を目指したとき、五稜郭の戦いについて調べました。今回は、歴史ファンの方でなくても、五稜郭の戦いについて、わかりやすく解説していきたいと思います!



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五稜郭の戦いって、いつの時代にあったの?

五稜郭の戦いは、幕末の1868年(慶応4年)10月から1869年5月17日に起こった明治新政府軍と旧幕府軍との戦いのことをさします。旧幕府軍は江戸幕府・海軍副総裁の榎本武揚を筆頭に、彰義隊、仙台藩士、新撰組の隊員で構成され明治新政府に対し反旗を掲げていました。その中に土方歳三もおり、中心人物として活躍します。

すこし、幕末にあったことを年表にしました。教科書にでてきた言葉もあると思います。
1853年 浦賀にペリーの黒船が来航する
1860年 桜田門外の変 ※大老井伊直弼が日米修好条約に調印したことへの反発
1864年 池田屋事件 ※新撰組が池田屋で長州藩と土佐藩の尊王攘夷派を討つ
1867年 大政奉還 ※徳川慶喜が朝廷に統治権を返上し、武士の時代が終わる。
1868年 鳥羽・伏見の戦い ※幕府軍、惨敗する。戊辰戦争の始まり。
1868年 江戸無血開城 ※勝海舟と西郷隆盛が会談し、江戸総攻撃中止となる
ペリー来航から日本は一気に新しい時代へと駆け進んで行くように見えましたが、そんな時代の流れを、すんなり受け入れなかった人々もいました。

榎本武揚は旧幕府軍の筆頭となった人物です。海軍だったので軍艦を明治新政府に返還せずに、函館を目指し、その地で独自の新政府を立ち上げようとします。榎本らは、五稜郭を占拠しますが、明治新政府軍の総攻撃にあい、7ヶ月間の戦いの末、降伏し開城します。五稜郭の戦いを降伏したことで、明治という新しい時代は本格的にスタートします。

旧幕府軍や明治新政府にはどんな人物がいたの?

旧幕府軍の主な人物は、総裁:榎本武揚、副総裁:松平太郎、大鳥圭介、土方歳三、星恂太郎ら主要な人物をはじめ、約3000名がいたとされています。一方、明治新政府軍の主な人物は、元薩摩藩士の黒田清隆、元長州藩士の山田顕義、増田虎之助など7000名が函館に派遣されました。

五稜郭降伏後、黒田清隆は榎本武揚を助命するなど奔走し、山田顕義は後に日本大学を創始に関わる人物となるなど明治時代の日本を支えて行きました。

五稜郭の戦いをわかりやすく解説

「五稜郭の戦い」とは、鳥羽・伏見の戦いを発端にした「戊辰戦争」の最後の戦いです。五稜郭で行われたので、「五稜郭の戦い」と言われていますが、箱館戦争ともいわれています。戊辰戦争の戊辰は、干支のことで、明治元年は戊辰だったので、戊辰戦争と言われています。途中で干支が己巳に変ったので、「己巳の戦い」といわれることもあります。

戊辰戦争は、鳥羽・伏見の戦い、江戸城明け渡し、上野戦争、長岡上の戦い、会津の戦い、そして五稜郭の戦いで終結をします。もし、五稜郭があと5㎞ほど内陸に築城されていたら、砲撃の目印となった望楼が無かったら降伏せずに、違う時代の流れになっていたのかなあ、なんて想像してしまいます。



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五稜郭の戦いをわかりやすく解説!いつ始まりなぜ降伏したのか分析!【まとめ】

今回は五稜郭の戦いについて、いつ、どんな人物がいたのか、降伏したことなどわかりやすくお話してきました。この時代は、短い期間にいろんなことが起こり過ぎて、わかりやすお話するのが難しかったです。

日本が新しく変っていった今の時代から見ると、とても興味深いですよね。五稜郭内に、箱館奉行所が復元さていますので実際に見て、どんなことが起こっていたのかわかりやすく展示がされています。是非、五稜郭に行って、激動の幕末を体感して下さいね。