会津若松城は落城でボロボロになったの?復元や計画のなぜを調査!

福島県会津若松市にある会津若松城の天守閣は2023年4月28日に全館グランドオープンしました。

(※写真はイメージです)

デジタル技術によって、会津の歴史を体感できるなど、五感で楽しめる天守閣として生まれ変っています。会津若松城は約150年前の戊辰戦争では悲劇の舞台となり、戦争で変わり果てボロボロな姿となりました。

そこで今回は、会津若松城が落城した理由、ボロボロになった経緯などを徹底調査していきます。



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会津若松城について

会津若松城は鶴ヶ城とも呼ばれ日本の100名城の1つです。自分は新選組のファンなので、いつの日か会津若松城に行きたい、会津に行きたいと思いやっと訪れることができました。青春18切符を使って関東から北上する計画をたてました。これは旧幕府軍と同じような行程を取りたかったからです。そして半日かけて会津に着き、会津若松城を見たときは「やっと来れた」と感動しました。

さて、会津若松城の歴史をおさらいしましょう。なぜボロボロになったのか?1384年(至徳元年)頃、源頼朝によって会津守護に命ぜられた蘆名直盛が東黒川館を築きました。その後、伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝、会津藩初代藩主となる加藤嘉明らがこの地に入城しています。

現在に至るまで会津若松城におとずれ危機は、地震と戊辰戦争でした。東北の雄として築城された7層の天守閣は、1611年(慶長16年)のマグニチュード6の大地震で甚大な被害がでましたが加藤明成によって修繕されました。会津若松城は戊辰戦争において、新政府軍の砲撃や銃弾などで戦火に包まれましたが、死角が少なく難攻不落のお城といわれており、敵は1人も入れることなく落城はせず、開城することになります。

地震でも戦争でもボロボロになるまで被害がでましたが、持ちこたえた堅城は、明治7年に天守閣の解体が行われました。会津若松城は競売にかけられましたが、旧会津藩主であった遠藤敬止氏らによって落札する計画をたて募金活動など行ったそうです。現在は若松市が所有しています。会津若松のシンボルとして天守閣をはじめ様々な建築物の再建、復元の計画がされ実現をしています。
○1960年(昭和35年)に本丸再建
○1965年(昭和40年)に鉄筋コンクリートの天守閣再建
○1990年(平成2年)に茶室麟閤復元
○2001年(平成13)年に飯櫓と南走長屋復元
○2011年(平成23年)に黒瓦から赤瓦に復元
この赤瓦は、会津の寒い冬でも凍結に耐えることができると言われています。会津若松城の天守閣はその美しい姿で今も多くの人々を魅了し、歴史を後生に伝えています。

戊辰戦争とは

会津若松城が落城したのか、なぜボロボロになったのかという話しは、幕末におこった戊辰戦争の籠城が理由です。戊辰戦争とは、慶応4年/明治元年(1868年)~明治2年(1869年)におこった新政府軍と旧幕府軍の戦いです。ペリーが浦賀に来航したことによって、日本が開国するか、しないのかなど江戸幕府はもちろん日本の多くの藩が揺れて、慶応3年(1867年)大政奉還が行われ、政権を天皇に返上し江戸幕府は終ってしまいました。

大政奉還の前後には、京都は長州・薩摩藩を中心とする倒幕派、尊王攘夷派、佐幕派といった様々な思想が飛び交い、治安が不安定でした。そこで江戸幕府は荒れてる京都を守る為に、京都守護職という役職をつくり、リーダーとして会津藩主の松平容保を任命します。松平家は幕府へ忠誠が深い事で有名ですよね。

松平容保は新撰組を配下に置くなど、京都の治安維持に務めますが、時代の流れは倒幕へと進みます。ドラマなどで有名な池田屋事件はこの頃起こり、新撰組は元治元年(1864年)に京都・池田屋で密議する長州藩などを襲撃します。このことが会津藩が長州の恨みをかったという説もあり、戊辰戦争まで引きずられたようです。

禁門の変では、幕府軍として会津と薩摩で長州藩を破りましたが、薩摩は寝返って長州と手を結び、鳥羽伏見の戦いでは、会津藩は天皇に背く賊軍となり、幕府は負けます。その後戊辰戦争が始まり、会津若松城では武士もその家族も籠城し1ヶ月激戦の末に降伏します。この時代の武器は大砲が主流となって、城内は1日に何発も砲弾をあび戦火につつまれました。

天守閣がボロボロになる火が上がったお城を見て少年兵で編成された白虎隊が自害するという悲劇もありました。なぜ落城しなかったのかは、その理由はたくさんあると思いますが、籠城している武士や家族の命を守るためであったと思われます。



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会津若松城は落城でボロボロになったの?復元や計画のなぜを調査!【まとめ】

今回は会津若松城がなぜボロボロになったのか、落城の理由について調査をしてきました。幕末は歴史ファンの中でも面白時代とされ、資料や手記などもあり、多くは観光地化されて現地に行くこともできますよね。会津若松城は、ボロボロになっている当時の写真も残っていることから落城したかのようですが、降伏し城を明け渡しています。

会津若松城は堅城と言われていますが、会津藩の魂の強さも併せ持っていたからでしょう。会津若松城や戊辰戦争については沢山の書物や映画やドラマでも描かれるので、知れば知るほど興味がつきません。会津若松城や城下町は見どころが満載なので計画をたてて観光して下さいね。