広島城はなぜ建てられた?誰がどのように建てたのか検証します!

戦国時代に築城された広島城は、第二次世界大戦では原子爆弾のターゲットとなり倒壊してしまいました。現在の天守閣は復元されたもので、春には約440本のソメイヨシノなどが咲く市民の憩いの場、観光名所となっています。広島城は別名「鯉城」と言われ、広島東洋カープの名前の由来になっています。

(※写真はイメージです)

今回は広島城がなぜ建てられたのか、その理由や、つくった人、いつ建てたのか?など広島城の築城にまつわるお話を検証していきましょう!



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広島城は、なぜ建てられた?何かに似ているの?つくった人は?

現在の広島城は、鉄筋コンクリート製で復元された三代目の広島城です。広島城はその名の通り、広島県広島市内の三角州にあります。築城は天正17年(1589年)とされ、築城主は毛利輝元です。作った人は、輝元になりますね。

中国地方は戦国時代から毛利家の領土となっており、輝元のおじいちゃんである、毛利元就が太田川河口の三角州に「お城を建てよう!」と目を付けましたが、実行前に亡くなってしまいました。元就は、領土拡大と、陸と海の交通の便を考えると、瀬戸内の海の近くがいいと考えこの三角州に決めたと考察されています。 まず、最初の「なぜ」は立地が条件にあったから、でした。

そして、跡を継いだ輝元が、広島城築城に着手することになります。広島城は豊臣秀吉が建てた聚楽第に似ていると言われています。聚楽第は、秀吉が関白に就任した際に建てられ、その豪華で派手な造りは豊臣家の権勢の現れでもありました。

ショベルカーもクレーン車も無い時代ですから、すごい建物を作れる人=すごく偉い人、という考えがあるのでしょう。では、なぜ聚楽第に似ているのでしょうか?輝元が天正16年(1588年)に上洛したとき、豪華な大坂城や聚楽第を見て、毛利家も、繁栄していくには、「これだ!立派な城が必要だ!」と思ったからとか。

天正17年(1589年)に広島城の築城が開始されました。この時、黒田官兵衛が指導係として派遣されたそうです。秀吉としては、どんな城かをチェックする意味もあったのでしょう。官兵衛がどの部分を指導していたか不明ですが築城の名手といわれた官兵衛なので、広島城を作った人に加えてもよいでしょう。

輝元は完成が待ちきれなかったのか、石垣など未完のまま入城しています。広島城は、慶長4年(1599年)に落城しました。広島城は、豊臣秀吉が大陸出兵の際の宿城の為にも必要だった、という説があります。他にも備前名護屋城、筑前名島城なども宿城としていました。 広島城のなぜ建てられたか、は毛利家のお城として、秀吉の宿城という理由があったと考えられています。

広島城の歴代藩主は誰?

関ヶ原の戦いで敗れた毛利輝元は、広島から長門萩に移封、そして福島正則が新たな藩主となります。しかし幕府に申し出ず、勝手に石垣を修繕したとして福島正則も移動となり新たに浅野長晟が入城します。浅野家は幕末まで藩主を務めています。

福島正則が修繕して破壊しただろうと思われる石垣は、広島城内で見ることができます。また、広島城が完全に完成をしたのは福島正則の時代とも言われています。正則も、広島城を作った人にいれてもいいですよね。



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広島城はなぜ建てられた?誰がどのように建てたのか検証します!【まとめ】

今回は、広島城なぜ建てられた?いつ建てられたのか?作った人などについて検証をしてきました。戦国時代から中国地方の要となり、歴代藩主を受け入れてきたのですね。初代広島城の天守閣には発掘調査によって金箔が押された鯱瓦と鬼瓦が使われていたことがわかりました。やはり秀吉の影響だったのでしょうか。

広島には、原爆ドームや平和記念公園など、見るべき場所はたくさんあります。広島城もその一つ。天守閣内は、広島の郷土の歴史や江戸時代の城下町について展示されとても興味深く見学できました。

石垣を見ることで、年代による作り方切り方の違いや原爆の脅威についても深く知ることができます。広島城は、広島駅から路面電車やバスで30分ほどのアクセスがとても便利な場所にありますので、是非お出かけ下さい!