送りバントの鬼?川相昌弘選手の送りバントに対する熱い思いを紹介!

野球において、送りバントという戦法はかなり地味な存在となります。

(※写真はイメージです)

ただ、1点を争うような緊迫した試合において、送りバントの成功が勝負の分かれ目になるケースもあります。

緻密な作戦を展開するスモールベースボールでは、特に必要不可欠な作戦と言えるでしょう。



送りバントの世界記録を持つ、元・読売ジャイアンツの川相昌弘選手は、送りバントという一つのプレーに誰よりもひたむきに向き合い、研鑚を重ねた選手でした。



川相昌弘選手には、偉大なる記録により「送りバントの神様」というニックネームがあります。

一方で、その鬼気迫るスタイルから、送りバントの鬼と呼ぶ人もいますね。



今回は送りバントの鬼とも呼ばれることがある読売ジャイアンツの名バイプレーヤー川相昌弘選手と送りバントの関係について、紹介します。



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巨人初の背番号0を背負い、送りバントで数々の記録を打ち立てる

川相昌弘選手は、岡山県出身です。

岡山南高等学校時代には投手として甲子園に出場し、あの荒木大輔選手を擁する早稲田実業高等学校と熱戦の末、敗退しています。



1982年のドラフト会議で読売ジャイアンツから4位指名を受け入団。

投手としての指名でしたが、入団直後に野手へ転向します。



当初は守備要員としての起用が主体で、ケガも多く、なかなかレギュラーに定着できませんでした。



1989年に読売ジャイアンツ初の背番号0となり、この年に監督に復帰した藤田元司監督の指導で、送りバントの名手としての地位を築き始めることとなります。



1990年に、当時の日本記録となるシーズン58個、さらに翌1991年には自らの記録を更新する66個の送りバントを成功させます。

その後、安定した守備力とともに打撃力も向上し、読売ジャイアンツには欠かせない戦力として一時代を築きました。



若手の台頭や監督人事などの関係で最後は中日ドラゴンズへ移籍し、2006年に引退します。



現役最終打席でも送りバントを成功させ、通算533犠打の世界記録を樹立。

最後まで送りバント職人として、引退に花を添えました。

史上最高と言われるその技術は、まさに送りバントのスペシャリスト

川相昌弘選手の送りバントの技術は、プロ野球史上最高と言われています。



世界記録を樹立したその通算バント数533はギネス記録にもなっています。

送りバントをするための代打として出場することも多く、相手チームに「送りバントをしてくる」と確信された状況でも、確実に成功させるその技術は「送りバントの鬼」の称号がぴったりです。



実際に、通算の犠打成功率は.906と驚異的な数字です。



1995年は47個の送りバントを決めていますが、送りバントの失敗は一度もありませんでした。

プロ野球の世界では、あらゆるジャンルのスペシャリストが集結しますが、川相昌弘選手はまさに送りバントのスペシャリストです。

統計学的に有効性の低い送りバントだが、数字に表せない要素が勝敗を分ける

日本のプロ野球では、確実に得点を取るための作戦として送りバントが多用されています。

これは、日本人特有の「できるだけリスクを避けたい」という思いが反映されているとも言われています。



一方で、アメリカのメジャーリーグでは、送りバントは少なく、その数は日本のプロ野球の半分ほどとも言われています。



これは、統計経学的に、送りバントの有効性が疑問視されたことによるものです。



セイバーメトリクスによる統計学的な分析によると、得点期待値(1イニングにどれだけ得点できると見込まれるか)で言えば、送りバントをした時の方がその値が下がる傾向にあります。

川相昌弘選手は、引退後に出演したテレビ番組「戦え! スポーツ内閣」でそれらのデータを見せられたことがありました。



これには少し戸惑った様子ではありましたが、「数値だけで判断はできない」とコメントしています。



実際に、送りバントという作戦に対する相手チームへのプレッシャーや、ゲームの流れを変えるなど、数字には表せない様々な要素が勝負を分けるポイントとなることもありますね。

意外にも武闘派の一面も見せてくれた乱闘シーン

送りバントを極め、脇役としての存在を貫いた川相昌弘選手ですが、一方で乱闘の場面では闘志をむき出しにするなどの意外な一面も見られます。



1993年に富山県の富山アルペンスタジアムで行われたヤクルトスワローズ戦、ヤクルトスワローズ古田敦也選手がホームにスライディングした際に、読売ジャイアンツ吉原孝介捕手と接触したことが引き金となり、乱闘に発展します。



この時、ショートを守っていた川相昌弘選手はすかさず乱闘の輪に向かって思い切りジャンピングニーパッドを仕掛けています。

このシーンは、プロ野球珍プレー好プレーで何度も繰り返し放送され、有名になりました。



また、1996年横浜スタジアムで行われた横浜ベイスターズ戦では、横浜ベイスターズ五十嵐英樹投手が読売ジャイアンツ吉原孝介選手の頭にデットボールを当ててしまいます。

直後、誰よりも早くベンチを飛び出し、五十嵐英樹投手に対し鬼の形相で詰め寄りました。



このように、普段から意外に武闘派であることがわかります。

こういった面から、「送りバントの神様」だけでなく「送りバントの鬼」と呼ばれる所以にもなっているのですね。



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送りバントの鬼?川相昌弘選手の送りバントに対する熱い思いを紹介!【まとめ】

送りバントの世界記録保持者である川相昌弘選手の様々なエピソードを紹介しました。

送りバントに対する鬼気迫る思いは、まさに送りバントの鬼と呼べるにふさわしいと感じます。



現在川相昌弘選手は、古巣読売ジャイアンツでコーチを務めており、その熱血指導は、たびたび「次期監督候補」として名前があがる程です。



送りバントの有効性に対する解釈は様々ですが、川相昌弘選手の、技術だけでなく、脇役に徹するその姿勢がチームにもたらす効果も少なくはなかったと感じます。



強いチームには名脇役の存在は欠かせません。

これからも川相昌弘選手の教えを受け継ぐ名脇役が生まれることを期待しましょう。