大阪城の外堀はなぜ埋めることになった?徹底調査!

現在見られる大阪城は、3代目の天守閣です。豊臣秀吉が築城した天守に似せて復興された鉄筋コンクリート製の建造物です。その周り外堀と内堀が囲っていますが、これは埋められてこの規模になっています。

(※写真はイメージです)

そこで、今回はなぜ大阪城の外堀がなぜ埋められてしまったのかその理由について調査をしてきましょう。



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大阪城の歴史を調べてみよう

大阪城の場所には、もともと石山本願寺があり織田信長がこの地を狙っていた説があります。安土城より、海に近く海運として利用できることが理由の1つです。

しかし、信長は本能寺の変で討たれ、その後豊臣秀吉がこの地に大阪城を築城しました。その大きさ、東西南北2キロメートルに及び、難攻不落と言われます。大阪城の立地は、上町大地の北側にあり北は淀川、西は平地となり大阪湾に繋がります。東は大和川と湿地で、敵が攻撃するには南方からありません。

大きいだけでなく、好条件な立地も難攻不落といわれているのでしょう。 秀吉は、築城に約3年を費やしました。内堀から外堀へと同心円状に縄張りを広げて城郭を成していました。大きなお城は、大きな権力を表すので豊臣秀吉の凄さが示されていたのでしょう。

なぜ、埋めることになったのか?

しかし、この難攻不落の大阪城にピンチがやってきます。秀吉の死後に起こった、1614年(慶長16年)大坂冬の陣です。大坂冬の陣図屏風を見ると、徳川軍20万の兵が大阪城を取り囲む様子がわかります。

徳川軍は20万の兵を持っても、大阪城を落とせなかったということになり、講和へ持ち込みます。この講和によって、内堀と本丸以外は埋め立てれてしまいました。「外堀を埋める」という作戦が大阪城を落とす有効手段だったのでしょう。

外堀が埋まってしまえば、難攻不落という肩書き無くなったも同然で、翌年の大坂夏の陣で、徳川軍によって落城され天守閣は焼失します。外堀が埋められたのは、豊臣政権から徳川政権へ変わりゆく中で「埋める」という最大の攻撃だったのが理由だと思われます。

その後、1620年(元和6年)に徳川幕府は九州地方からの防御と、徳川幕府の威光を示すため、新たな大阪城を10年を費やして築城をしました。すごかったお城よりも、もっとすごいお城を築城するなんて、徳川幕府の力が強かったことが分かりますね。

大阪城の石垣がすごい

燃えてしまった大阪城の少し西側に、徳川幕府は築城をしています。全く同じ場所に建てたというわけで無いですね。とても大きな石垣は、現在もみられる場所がありますのでご紹介します。大手門、京橋、本丸桜門には30畳ほどの大きな石があり、二の丸の石垣には、高さ30メートル超えの超大きな石垣が見られます。

塀の幅が70メートルにもなるので、攻撃はされにくい造りとなっています。これだけ規模を造るには、数万人を動員する必要が有りますよね。その給金やいろいろと費用がかかり、天下人である徳川幕府の威光がここでも表されています。

現在、大阪城は「豊臣石垣公開プロジェクト」を実施しています。ウェブサイトで募金方法など詳細がわかりますので是非チェックしてください。大阪城に行くと、大きな横断幕があります。実現するのが楽しみです。
参考サイトはこちら→https://www.toyotomi-ishigaki.com/

現存する徳川の遺構

大阪城の外周は約5キロほどありますので、外堀をぐるっと歩くだけでも疲れますよね。 マラソンランナーが好んで走るのがわかります。

しかし、当時はもっと長い東西南北の各方面が2キロメートルもあったなんて、信じられないほどです。天守閣や外堀以外にも、日本のお城を感じる建造物がいくつかあるのでご紹介します。

○千貫櫓、窓、石落とし
特別公開の時は窓から火縄銃(レプリカで玉無し)を持たせて貰えました。大手門から入ってくる敵はここで仕留めるんだなあと思いました。

○焔硝櫓 壁、屋根、構造
火薬倉庫のことです。中には入ったことはありませんが想像を膨らませながら周囲を見てきました。

○金蔵 扉、壁、換気口
金庫のことです。天守閣の近くにあります。金庫としては大きいのか、小さいのかよく分かりませんでした。
これらは普段は公開されていませんが、特別に公開されることがあります。



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大阪城の外堀はなぜ埋めることになった?徹底調査!【まとめ】

今回は、大阪城の外堀についてなぜ埋めることになったのかなどを調査してきました。大阪城、そのお堀が大坂冬の陣、夏の陣において埋められ落城していくストーリーは日本の歴史の中でも面白い展開ですよね。今年の大河ドラマ「どうする家康」でも描かれると思いますので早く見たいと思います。