プロ野球の監督になるには?監督の決め方にはいくつかのパターンがあった!

プロ野球の監督は、日本では12人しかなることができない、とても名誉な役割です。

日本のプロ野球では、「長嶋巨人」「野村阪神」など、球団名に監督名を添えて報じられるように、監督はチームの顔そのものと言えます。

そのため、もちろん誰でもいいというわけではありません。


ではプロ野球の監督になるにはどうすれば良いでしょうか。

監督になるには厳密なルールがあるわけではなく、監督という存在に対する日本的な考え方や、球団ごとにその決め方の違いがあります。

今回は、日本のプロ野球で監督になるにはどうすれば良いのか、過去の監督就任にまつわるいきさつなども含めて解説します。



スポンサードリンク


プロ野球の監督になるには?

生え抜きのスター選手がそのチームの監督となるパターン

日本のプロ野球で監督になるには、いくつかのパターンがあげられます。

まずは生え抜きのスター選手を監督に据えるパターンです。

かつての読売ジャイアンツ長嶋茂雄監督や王貞治監督、広島東洋カープの山本浩二監督などが有名ですね。

特に、読売ジャイアンツはこのパターンを現在まで貫いている球団です。

ファンにとっては、チームのスターとして活躍し、応援してきた選手が監督になるのは嬉しいことこの上ないですよね。

長年チームの顔として活躍すると、現役後半にはおのずと「次期監督候補」として名前が報じられるようになります。

さすがに現役の頃から「監督になりたい」と公言する選手は少ないですが、これまでの功績を最大限に称えられるような、光栄な気持ちになるでしょう。

ただ、「名選手、名監督にあらず」というように、現役時代凄い成績を残した選手でも、必ずしも名監督になれるとは限りません。

自分がプレーすることと、人を動かすこととは違います。

特に現代の野球は、いかにチーム全体をマネジメントできるかの視点が重要になりますね。



名監督がいくつものチームに監督として迎えられ指揮を取るパターン

次に、名監督と名高い監督経験者が、他球団に請われて就任するパターンです。

大毎オリオンズでパリーグを制覇し、阪急ブレーブスでも黄金時代を築いた西本幸雄監督は、1975年から近鉄バファローズの監督として迎えられました。

近鉄バファローズでも、万年最下位で負け犬根性の染みついたチームを猛練習で鍛え上げ、見事に球団初のパリーグ優勝に導きました。

一方で、通算8回も臨んだ日本シリーズでは一度も日本一になれず、悲運の名将とも呼ばれています。

古くは伝説の名監督三原脩監督が有名です。

創世記の読売ジャイアンツで監督を務めた三原脩氏は、1951年から西鉄ライオンズで指揮をとり、3年連続日本一の黄金時代を築きます。

その後も大洋ホエールズ・ヤクルトアトムズと、監督としてチームを渡り歩きます。

最近では 南海ホークス・ヤクルトスワローズ・阪神タイガース・楽天イーグルスの4球団で監督を務めた野村克也さんや、中日ドラゴンズ・阪神タイガース・楽天イーグルスの3球団で監督を務めた星野仙一さんがこのパターンですね。



二軍監督から一軍監督への昇格は近年のプロ野球で主流に

近年では、監督としての素質がある人を二軍監督として育て、満を持して一軍の監督に据えるケースが増えています。

2024年現在でも、阪神タイガース岡田彰布監督・ヤクルトスワローズ高津臣吾監督・オリックスバファローズ中島聡監督など、一軍監督としても優勝を手にした名前が並んでいます。

自ら二軍で鍛えてきた若手選手を、自らの手で一軍の舞台で羽ばたかせるこの行程は、監督自身も選手本人も格別な思いでしょうね。

また、チームの内部事情を熟知していることや、コーチや選手にとって既になじみ深い関係性であることから、かなりスムーズな人事となります。

福岡ソフトバンクホークスも、2024年から二軍監督の小久保裕紀氏を一軍監督に昇格しました。

日本代表監督も務めたその手腕が、一軍監督としてどう発揮されるか、注目です。



チームの体質を大きく変える外国人監督は、球団との軋轢も生みやすい

チームの体質改善を図るため、外国人監督を招聘するケースも稀に見られます。

かつての千葉ロッテマリーンズのバレンタイン監督や、北海道日本ハムファイターズのヒルマン監督は、その思惑通りにチームの改革を果たし、日本一に導きました。

ただ、外国人監督の場合、そのメジャー流の考え方がマッチすると良いのですが、日本の組織に対する考え方と軋轢を生みやすくもなります。

1975年、最下位常連だった広島東洋カープに、日本初のメジャー出身監督としてジョー・ルーツ監督が就任しました。

ルーツ監督はチームにアメリカ式合理主義を持ち込み、キャンプでの練習の取り組み方や、投手の起用方法などをメジャー流に改革しました。

その斬新さと猛烈な熱意に刺激され、チームには明るい兆しが見え始めます。

しかしシーズン開幕早々球団フロントと対立、わずか15試合で退団してしまいます。

ルーツ監督の改革は直後就任した生え抜き監督の古葉竹識監督に引き継がれ、広島東洋カープはこの年見事に球団創立初の優勝を掴みました。

外国人監督の強い個性の光と影を象徴する出来事でしたね。



成功の例がほとんどない選手未経験者の監督就任

プロ野球の歴史の中では、元選手以外でも監督を務めた人が何人かいます。

立教大学で長嶋茂雄選手・杉浦忠選手などを育てた砂押邦信監督は、1960年に国鉄スワローズのコーチとなり、翌年監督に就任しました。

その年はチームを初めてAクラスの3位に上昇させるなど奮闘しましたが、翌年は最下位に沈み、退任しています。

1955年に阪神タイガースの監督に就任した岸一郎氏は、かつて早稲田大学のエースとして活躍した選手でしたが、全くの無名で、青天の霹靂と揶揄されました。

積極的に新旧交代を推し進めましたが、藤村富美男選手など個性の強い中心選手からの反発を招いてしまい、わずか33試合の指揮で退団しています。

成功例がほとんどない選手未経験の監督就任ですが、当時とは野球の質が変わったこれからの時代は、マネジメント力に長けた専門家を監督に、という流れも生まれるかもしれませんね。



スポンサードリンク


プロ野球の監督になるには?【まとめ】

今回はプロ野球で監督になるには?というテーマで、様々な監督人事について紹介しました。

監督という一つの役職でありながらも、監督人事の考え方も様々であることがよくわかります。

かつては名選手がそのまま監督となり、独裁的にチームをまとめ上げる風潮がありましたが、ここ最近は監督としての素質やコミュニケーション力などを重視する傾向が見られます。

時代によって、求められる監督像というものが今後も変わってくるのでしょうね。

これからどのような新しいタイプの監督が誕生するのか、とても楽しみになります。