古田敦也監督の成績はどうだったか?話題となった選手兼任監督時代を紹介!

ヤクルトスワローズの名捕手として活躍した古田敦也選手。

1990年にプロ入りし正捕手の座を射止めると、現役時代5度のセリーグ優勝に貢献、打者としては史上2人目の2000本安打を達成。

1990年代から始まるヤクルトスワローズの黄金時代を築きました。


その古田敦也選手は、2006年から2年間、選手兼任監督として、現役を続けながらチームの指揮をとりました。

29年ぶりの選手兼任監督の誕生は大きな話題となり、期待が大きかったものの、監督としては成果を残すことができず、2年目の2007年はチームが最下位に沈んだことにより退任されています。

今回は29年ぶりの誕生となった古田敦也選手兼任監督時代について詳しく紹介します。



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古田敦也の監督時代

名捕手として一時代を築き、2006年から選手兼任監督に就任

古田敦也選手は1990年にヤクルトスワローズにドラフト2位で入団すると、同じ年に監督に就任した野村克也監督に正捕手に抜擢されます。

1年目からオールスターに選ばれるなど上々の活躍を見せると、2年目以降は強肩や巧みなリード、そして首位打者を獲得したシュアーな打撃など、押しも押されぬ球界No1捕手となります。

古田敦也選手の活躍で、長年暗黒時代を過ごしたチームは1992年には14年ぶりのセリーグ優勝、そして93年には日本一に輝きます。

その後もあらゆる場面においてヤクルトスワローズで、そして日本のプロ野球界でリーダーシップを発揮してきた功労者は、野村克也監督からバトンを引き継いでいた若松勉監督が2005年に退任すると、その後任として選手兼任監督に就任します。



時代に反する選手兼任監督。その注目度と期待は日に日に増していった

恩師・野村克也監督が1970年から1977年まで南海ホークスで選手兼任監督を務めましたが、古田敦也監督はそれ以来、29年ぶりの選手兼任監督となりました。

分業制が確立した現代のプロ野球では画期的なこととして、大きな話題となりました。

かつてのプロ野球では、名将と言われた西鉄ライオンズの三原脩監督や読売ジャイアンツの水原茂監督、南海ホークスの鶴岡一人監督など、監督自身があらゆる権限を持つ独裁的な采配が主流でした。

しかし、現代は各部門に専門のコーチを配置し、役割を分業させる組織の作り方が一般的です。

また、膨大なデータを駆使し、様々なケースで細かな作戦を立て実行する現代の野球では、独裁的な采配は困難であると考えられます。

時代にそぐわない選手兼任監督という役割がどのような結果をもたらすのか、賛否が飛び交う中、ID野球の申し子と呼ばれた古田敦也選手兼任監督への注目が否応にも高まりました。



ファン第一のF-Project。ファンサービスの充実は令和の時代に引き継がれている

古田敦也選手兼任監督がまず取り組んだのはファンサービスでした。

ファンを大切にする古田敦也監督らしい計らいです。

ファンサービスの拡大と地域密着の強化を掲げた「F-Project」を発足。

正式な球団名も「東京ヤクルトスワローズ」と改称します。

これらの取組は、「ファンにチームや選手を身近な存在に感じて欲しい」という、古田敦也監督のファン第一の考え方から生まれています。

プロジェクトにはカカクコムの当時の穐田誉輝社長など、外部の人材を招聘し、球団の多角化経営を図ろうと試みます。

プロ野球が新たな時代へと変化していく中で、その時代に合わせ改革するチャレンジ精神は、旧態依然の野球界に立ち向かった古田敦也監督ならではのアイデアです。

このF-Projectは、古田敦也監督の退任と同時に終了となりましたが、球団ごとに様々な形で行われるファンサービスが広がった令和の時代に、確実につながっていることが良くわかります。



予想に反し攻撃重視の野球を展開。「代打オレ」も不発の苦い監督1年目

一方、古田敦也選手兼任監督が誕生した頃のヤクルトスワローズは、全盛期だった黄金時代の選手たちがベテランとなり、世代交代が求められる時期でした。

その為、結論としては監督として優勝を果たすことはできませんでした。

就任一年目、現役時代に身に着けたID野球をどう生かすのか注目されましたが、意外にも強力打線で相手を打ち崩す攻撃重視の采配を展開します。

2番におかれたアダム・リグス選手をはじめスターティングメンバーには外国人野手を3人並べるなど、本塁打を打てる選手を揃えます。

おそらく、この時点のチームの投手力では、相手に何点取られてもそれ以上何点も取り返すような野球にしないと勝てないと考えた末の方針だったのではないでしょうか。

実際、チーム本塁打数はセリーグ最多の161本塁打を記録しましたが、投手陣は怪我人の続出などにより固定できませんでした。

チームは辛くも3位に入ったものの、70勝73敗と借金3で監督就任1年目のシーズンを終えます。

なお、「代打オレ」のフレーズで注目された選手としての出場は、36試合・22安打で本塁打0という、入団以来最低の個人成績に終わります。



監督2年目は最下位に転落。監督として退任、選手として現役を引退

真価が問われる古田敦也選手兼任監督の2年目のシーズンは、アレックス・ラミレス選手がセリーグ最多のシーズン204安打を記録し、青木宣親選手も首位打者争いを演じるなど、持ち前の打線が機能しました。

しかしチームとしては前年よりも成績を落とし、古田敦也選手兼任監督の采配も、頻繁にスターティングメンバーを入れ替えるなど、やや雑に感じられる一年となりました。

チームは21年ぶりの最下位に転落し、監督としては退任、選手としては現役引退を決めます。

引退セレモニーの「また、また会いましょう」という言葉は、常にファンを大切にしてきた古田敦也選手兼任監督ならではのあたたかい言葉でしたね。

神宮球場で行われた引退試合では、最終回に高津臣吾選手と最後のバッテリーを組み、また横浜スタジアムで行われたシーズン最終戦・横浜ベイスターズ戦では、最後の「代打オレ」で登場し、通算2097本目の安打を放ち最終の美を飾っています。

入団から兼任監督時代まで背負い続けてきた背番号27は、チームの名誉番号とされ、2022年に中村悠平選手に託されるまで大事に温存されました。



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古田敦也選手の監督時代【まとめ】

29年ぶりとなった選手兼任監督は、結果だけ見ると成功したとは言えません。

しかし、プロ野球界に新たな風を吹き込んだ古田敦也選手兼任監督のアイデアやその実行力は、その後のプロ野球界を考えると大きな発展だったと思います。

ファンを愛し、ファンに愛された稀代の名捕手は、監督退任後はその明晰な頭脳と親しみやすいキャラクターで、様々なメディアで活躍中です。

今でも、現場復帰を望む声はやみません。

いつか、再びプロ野球チームのユニフォームをまとう日が来るのでしょうか。

「また、また会いましょう」が実現されるその日が、今から待ち遠しくてたまりませんね。