古田敦也選手のすごさとは?頭の良さがわかる数々の伝説を紹介!

1990年代のヤクルトスワローズ黄金期の正捕手、古田敦也選手。

ID野球で一世を風靡した野村克也監督の申し子として、当時弱小チームだったヤクルトスワローズを何度も優勝に導きます。

捕手としても、打者としても、そしてプロ野球界のリーダーとしても活躍した、希有な選手の一人ですね。


古田敦也選手のすごさはそのプレーだけでなく、学生時代の逸話など様々な伝説からも感じられます。

無名の高校での日々、一般入試で入学した大学、ドラフト指名漏れ、一般採用で大企業トヨタ自動車へ入社するなど、いくつもの人生の壁を乗り越えてきました。

だからこそ、どのような苦境にも立ち向かえる強靭な精神力と行動力が備わったのでしょうね。

今回は、今や伝説ともなったミスター・ヤクルトスワローズ古田敦也選手のすごさについて紹介します。



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古田敦也のすごさ

野球だけでなく勉強にも励み、一般入試で2つの大学に合格

古田敦也選手は兵庫県川西市生まれです。

中学の頃は当時通っていた中学校の野球部のいじめに近いしごきに耐え兼ね、転校を経験しています。

高校は、当時野球部としては無名だった地元の兵庫県立川西明峰高校へ進学。

高校3年生になると一般の生徒と同様、大学入試に向けて受験勉強に励みます。

その結果、頭脳明晰だった古田敦也選手は、関西大学商学部と立命館大学経営学部の2校に合格します。

小さい頃から野球一筋だった多くのプロ野球選手とは異なり、真面目に勉強に取り組み、一般入試で2つもの大学に合格するすごさは、その後のプロ野球人生にも確実につながっていきます。

当初は野球の強かった関西大学への入学を希望していたようですが、立命館大学硬式野球部の中尾卓一監督らに熱心に誘われ、最終的に立命館大学へ入学しました。



メガネが災いしまさかのドラフト指名漏れ。悔しさをバネにして社会人に

古田敦也選手は、大学時代の活躍によりドラフト指名候補として名前が上がるようになり、実際に日本ハムファイターズなどから指名の確約をもらいます。

ドラフト会議当日には記者会見場が設けられ、垂れ幕まで設置されていたようですが、まさかのドラフト指名漏れとなりました。

その要因は、古田敦也選手の「目」にありました。

古田敦也選手は受験勉強の時に視力を悪くしてしまい、その後は眼鏡をかけるようになりました。

当時はメガネをかけていることが、プロ野球選手としてプレーする上でハンディキャップになると考えられていました。

プロ野球選手になることが夢で、その努力を惜しまなかった古田敦也選手が、どれだけ悔しい思いをしたか、想像を絶しますね。

その悔しさをバネにし、一般採用枠で大企業のトヨタ自動車へ入社します。



仕事を通し社会人としての流儀を身に着けた若き頃。野球でもオリンピックで活躍


トヨタ自動車では人事部での仕事に従事します。

また、新入社員研修ではディーラーの営業などにも携わったということで、その頃から社会人として、適正な金銭感覚を身に着けることができたと本人も話しています。

大学時代に学んだ経営に関する知識や、社会人として育んだ人事労務関係の経験などが、のちに球界を揺るがす球界再編の労使交渉の時に大いに役に立ったことでしょう。

トヨタ自動車では1年目から主力捕手として活躍し、8月のソウルオリンピックの代表選手にも選ばれます。

オリンピックではあの野茂英雄選手や潮崎哲也選手、石井丈裕選手など、のちのプロ野球でも大活躍する多くの投手陣の女房役として活躍し、銀メダルを獲得しています。



メガネを巡って最後までもめたドラフト2位指名

翌1989年のドラフト会議でヤクルトスワローズにドラフト2位で指名され、念願のプロ入りを果たします。

ヤクルトスワローズは伝説の名捕手・野村克也さんが新監督として就任したばかりでした。

古田敦也選手の指名に関しては、ドラフト会議直前まで野村克也監督と当時の片岡宏雄スカウト部長の間で意見の対立があったと言われています。

その要因はやはり「メガネ」でした。

野村克也監督と片岡宏雄スカウト部長、どちらか推してどちらが否定的だったかは、後のお互いの証言が食い違っていることから、定かではありません。

いずれにせよ、古田敦也選手のドラフトでの指名はすんなりと決まったわけではなかったようですね。


何度も逆境にさらされながらも、あきらめないその姿勢が共感を呼ぶ


プロ入り後も、ことあるごとにメガネについてマイナスな報道がされますが、古田敦也選手はその印象を抜群の成績で堂々と払拭します。

1年目からのオールスター出場、2年目の首位打者獲得、さらにヤクルトスワローズを日本一と導くなど、誰もが認める日本を代表する名捕手と成長します。

古田敦也選手の野球人生をたどると、他のプロ野球選手には経験のない、いくつもの逆境がありました。

古田敦也選手のすごさは、逆境のたびに不屈の努力でその壁を乗り越えてきたことです。

1998年からは労働組合日本プロ野球会会長を務め、名実ともに日本プロ野球のリーダーになります。

2004年のプロ野球再編問題では、現場の当事者として矢面に立ち、最後までくじけずに労使交渉にあたったその姿は、多くのプロ野球ファンに共感され、最終的にセ・パ6球団ずつの12球団体制維持につながりました。

労使交渉のさなかでもユニフォームを着てグラウンドに立ち続けた古田敦也選手には、敵味方関係なく、多くのプロ野球ファンから拍手が沸き上がりましたね。



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古田敦也のすごさ【まとめ】

今回はミスタースワローズ古田敦也選手の数々の伝説から感じられるそのすごさについて、紹介しました。

これまで、数多くのプロ野球選手が誕生し、今日まで数々の伝説を残してきましたが、これほどまでに多くの逆境を乗り越えて一流選手となったケースは少なく、そのどの姿勢にも感銘を受けます。

文武両道を見事に実践し続けた学生時代や、ドラフト会議での屈辱、恩師との奇跡的な出会いや、プロ野球界の危機に立ち向かうその行動力。

どれをとっても、今後長きにわたって伝説となることでしょうね。

今でも古田敦也選手の現場復帰を望む声が絶えません。

いつかまた、このプロ野球界に新たな光を照らしてくれる日を、ワクワクして待っていましょう。