野村克也さんの若い頃からの歩みを紹介。現役時代はすごかった!

野村克也さんと言えば、最近では名監督としてのイメージが定着しました。

データを駆使し、頭を使うID野球を推進、プロ野球の戦術を大きく変えた功労者です。

若い頃の野村克也さんのポジションはもちろん捕手。

そして南海ホークスの強打者として活躍しました。


打者としては、当時のシーズン本塁打記録の更新となる52本塁打や、戦後初の三冠王に輝くなど、数々の打撃記録を打ち立てます。

一方で捕手としては「ささやき戦術」を駆使し、「投手は0度、捕手は90度」と独自の捕手理論を生むなど、個性派の捕手として名を馳せます。

1970年からは選手兼任監督に就任し、南海ホークスの顔としてチームを牽引。

1980年に西武ライオンズで現役を引退するまで、常にプロ野球界をリードする大きな存在でした。

今回は通算26年間の現役時代の野村克也さんの若い頃からの歩みについて紹介します。



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野村監督の若い頃!苦労続きの少年時代

野村克也さんは京都府出身。

早くに父親を戦争で亡くした一家は貧しい生活を強いられます。

小学生の頃から新聞配達やアイスキャンディー売りなどのアルバイトで家計を助けていた野村克也さんは、やがて野球に興味を持ち始めます。

しかしバットが買えなかったため、一升瓶に海水をつめて素振りをしていたとのことです。

中学生入学後から捕手となり、その後野球では無名校だった京都府立峰山高等学校へ進学。

高校3年生の時に南海ホークスの入団テストを受け、念願のプロ入りを果たします。

入団当時の背番号は60番でした。



プロ生活1年でクビの危機。熱意とその後の努力が鶴岡監督の目に留まる


南海ホークス入団1年目は9試合に出場し、11打数0安打と結果を残すことができませんでした。

シーズン終了後に球団から解雇通告を受けますが、「無給でも良いから残してほしい」と懇願、根負けした球団が残留を認めます。

ここで退団していたら、後の野村克也さんの数多くの伝説は生まれませんでしたね。

野村克也さんにとって、人生の大きなターニングポイントでした。

残留が認められた際に「カベ(プルペン捕手の隠語)として残しておくか」とまで言われた屈辱の入団2年目、野村克也さんの壮絶な努力が実り、徐々にその実力を開花させていきます。

そしてハワイで行われたキャンプにて鶴岡一人監督に認められ、つい正捕手の座を射止めます。



パリーグを代表する強打者としての数々の記録。南海ホークスは黄金時代へ

若い頃の野村克也さんはまず打者として実力を発揮し始めました。

プロ4年目の1957年に初めての本塁打王を獲得すると、1961年から8年連続で本塁打王を獲得。

1962年からは6年連続で打点王を獲得するなど、打撃タイトルを独占します。

1963年には当時のシーズン本塁打記録となる52本塁打を達成。

1965年には初めて首位打者を獲得し、戦後初の三冠王に上り詰めました。

今振り返ってみても、すさまじい活躍ですね。

野村克也さんがパリーグを代表する強打者となるとともに、南海ホークスも1959年から1966年までの間、4度のパリーグ優勝や2度の日本一など、黄金時代を迎えます。



伝説の4番打者兼捕手兼監督。野村再生工場も稼働開始

南海ホークスは1969年に最下位に沈みます。

解任された飯田徳治監督の後任として、野村克也さんは1970年から南海ホークスの選手兼任監督となります。

最近のヤクルトスワローズ古田敦也監督や中日ドラゴンズの谷繁元信監督とは異なり、34歳というまだ若い頃で、バリバリに現役で活躍していた最中での兼任監督就任でした。

当時の野村克也さんは、4番打者兼捕手兼監督と呼ばれました。

この三足の草鞋は、現代のプロ野球ではなかなか考えられませんね。

兼任監督1年目は、チームを2位に浮上させるとともに、選手としても42本塁打を打ち、10月には2000本安打を達成。

捕手としても、ベストナインに選ばれています。

後年流行となった「野村再生工場」もこの時期から本格稼働し始め、捕手として、他球団から移籍した数々の投手の潜在的な能力を引き出します。

3つの重責を抱えながらもすべてにおいて結果を出すその才能には、脱帽ですね。

1973年には、監督して初めてリーグ優勝を果たしています。



生涯一捕手として球団を渡り歩き、26年間の現役生活に別れを告げる

南海ホークスで8年間兼任監督を務めた後、球団と対立した野村克也さんは南海ホークスを退団。

選手専任の立場で、戦友金田正一監督率いるロッテオリオンズへ移籍します。

兼任監督から一選手に戻った自分自身のことを「生涯一捕手」と言うフレーズで語り、後に数々の名言を残す野村克也さんの代名詞的な言葉となりました。

その翌年には福岡県から埼玉県へ移転したばかりの新生西武ライオンズへ移籍。

現役最後の舞台へとたどり着きます。

西武ライオンズでは出番が減少したものの、的確なアドバイスで若い投手の成長を促し、後に訪れる西武ライオンズ黄金時代の基盤を築きます。

1980年に当時前人未踏の通算3000試合出場を果たし、45歳で26年間の現役生活に幕を閉じました。



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野村克也監督の若い頃【まとめ】

日本のプロ野球史において、常に大きな存在であり続けた野村克也さん。

無名だった若い頃のひたむきさ、その実力が発揮された数々の驚異的な記録、4番打者兼捕手兼監督という3足の草鞋を見事に務め上げた才能、現役最終盤での不遇時代。

振り返るとこれほどまでの波乱万丈な野球人生を送った名選手はいません、

引退後はヤクルトスワローズで黄金時代を築き、その後阪神タイガースや楽天イーグルスでも監督を務め、多くの選手を育てました。

2020年に亡くなるまで、多くの名言を残し、大きな存在感を示し続けてきた野村克也さんの源流は、若い頃の様々な経験から育まれたと言えます。

野村克也さんのその精神は、今後もプロ野球界に受け継がれていくことでしょう。